難波真実「ひとこと便り」

三浦綾子記念文学館(北海道旭川市)事務局長による、備忘録を兼ねた情報発信です

まもなく小説『塩狩峠』50年。“人はいかに生きるか”が問いかけられる。

f:id:mnamba:20151115232730j:plain

月刊誌「信徒の友」の連載開始から50年を迎えようとする小説『塩狩峠』。三浦綾子のデビュー作『氷点』と並んで、代表作の1つです。これまでの販売部数は約370万部(日本国内での売上数。これには電子書籍は含まない)。新潮文庫の「100冊」にも毎年選ばれ、今も変わらず読み継がれている名作です。

かくいう私も、三浦作品との出会いは、この本でした。まさか、北海道に移り住んで、しかも、この舞台であるまさに「塩狩峠」のすぐそばで生活することになるとは思ってもみませんでした。人生とは、不思議ですね。

先日、母がなにげに、「塩狩峠って、不思議な名前やね」とつぶやきました。ま、たしかに、聞き慣れない単語ですね。母も兵庫の出身ですから無理もありません。

塩狩の“塩”は、「天塩(てしお)」の塩。“狩”は、「石狩(いしかり)」の狩です。そう、「天塩国」と「石狩国」を分ける峠なのです。

JRの線名も、旭川までが「函館本線」であり、以北は「宗谷本線」となりますが、明らかに風土の異なる別の国となります。

石狩川は、大雪山系を水源地とし南下します。一方、天塩川は士別市と滝上町の天塩岳(北見山地)を水源地とし北上します。どちらも日本有数の大河ですね。

この小説の舞台は、ほぼ東京と札幌、そして旭川であり、塩狩峠自体はクライマックスに登場するだけです。けれども、この峠を境に、人々の人生が大きく変わることを思えば、作品の意味をこれだけ鮮やかにあらわすタイトルは、ほかにつけようがないかもしれません。

連日、人が殺される出来事が報道されています。テロ事件、殺人事件、交通事故などなど。なぜ、そうなってしまうのだろうかと、心がふさぐ思いです。『塩狩峠』の永野信夫は、“人を生かす”ことの難しさに直面し、一生の課題とします。『氷点』の陽子もそうですが、自らの生き方を問うだけでは、答えは容易に見つからないのですね。人を生かそうとするときに初めて、人は自らの存在を定義することができるのかもしれません。命というのは、関係性なのだとあらためて教えられます。

「文学は何ができるのか」という大きなテーマのようなものに、最近は頭の中が占拠されています。もちろん、私は文学者ではありませんから、基礎的な土台がなく、体系だった道筋を見つけられるわけもありません。しかしながら、文学館という場に属する者として、やはり考えざるを得ません。

その昔、教科書で出会った作品に『絵本』という小説があります。『豆腐屋の四季』で有名な松下竜一さんの作品ですが、印象に強く残っていて、この名前はずっと忘れませんでした。いつか読みたいと願っていて、20数年を経てようやく書店で探したところ、彼の作品は棚から消えていました。見つけたときに買っておかなければならないというルール(自分なりの)の大切さを思い知りましたが、後の祭りでした。※最近、別の方が教科書の名作を集めて本になさったようで、そちらで読むことができます。

文学作品のすべてに力があるのかというと、それはわかりませんが、しかし、人生において“出会う”といいますか、“出会わされる”ということがあるような気はします。生き方というところにまで昇華させることはできないにしても、物の見方、感じ方というアンテナの角度といえばいいのでしょうか、自分を作り上げる一つの領域として存在するような。

そういう力を信じるのであれば、やはりそれを伝えなければならない。経済的な事情や、社会的な力関係の弱さによって、土俵から外れ、忘却の波に押し流されてしまう、あるいは変質を強いられることに対して、それでよいのかと常に問い続けながら、抗いながら、伝え続けなければならない、そのように思います。というか、それは結局、“使命”として持たされるかどうか。

“たしかな言葉”を欲するときが、人にはきっとある。そのときに、それを差し出せるかどうか。差し出すということは、その言葉をもって生きているかどうかなんですよね。その言葉と関わり合って生きているかどうか。命を持っているかどうか。

これからの文学館というのは、これまでもそうだったのでしょうけれど、やっぱりそこが問われていくのだと思います。命があるかどうか。“たしかな言葉”を欲する人に、すっと差し出す場。教えるのではなく、押しつけるのでもなく、放り出すのでもなく、手のひらを開いて差し出す。

建物や施設が言葉を差し出すのではありません。やっぱり、人。人が人に差し出す。言葉に関わり合って生きている人が、“たしかな言葉”を欲する人に差し出す。かつては自分が“たしかな言葉”を欲する人だったからこそ、いや、今でも“たしかな言葉”を欲する人だからこそ、その心がわかる。そういう場でなければならない。そう思うのです。

文学館たらしめるものは何か、それは、“命のある言葉”ではないか、そこに立脚するかぎり、文学館は存在意義を失わないように思うのです。

長くなりました。では、また! 難波真実でした。